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亜蘭レイが目を覚ましたのは、日曜日の朝十時だった。
東京の夏の陽射しが、薄いカーテン越しに部屋を満たしている。六畳一間のワンルームマンション。家賃は七万円。決して広くはないが、レイにとってこの空間は完璧だった。なぜなら、ここには誰も縛るものがないから。
寝起きのまま、レイはスマートフォンを手に取った。画面には五つの通知。
「おはよう。今日は仕事だけど、君の顔を思い出すだけで頑張れる」
最初のメッセージは、隼人からだった。三十二歳の会社員。広告代理店で働く彼は、いつも朝早くから夜遅くまで仕事に追われている。
「昨日のパスタ、本当に美味しかった。また作ってね」
二つ目は、蒼太から。二十五歳の美容師。繊細な指先で髪を整える彼は、レイの料理を誰よりも喜んでくれる。
「レイさん、来週の勉強会の資料、見てもらえますか?」
三つ目は、理央。二十九歳の高校教師。生徒たちに慕われる真面目な彼は、レイに対してだけは少し甘えた声を出す。
「新しい曲ができた。聴いてほしい」
四つ目は、奏多。二十六歳のフリーランスの音楽プロデューサー。いつも何かに追われているような焦燥感を抱えている彼は、レイの前でだけ穏やかな表情を見せる。
「レイ、おはよ。今日も君は最高に美しいと思う」
五つ目は、悠馬から。二十二歳の大学生。レイより六歳も年下の彼は、無邪気な笑顔の裏に、家族からの期待という重荷を背負っている。
レイは一つ一つのメッセージに、丁寧に返信した。
彼女は嘘をつかない。五人全員に、同じように愛していると伝える。なぜなら、それが真実だから。
シャワーを浴びて、簡単に化粧を済ませる。鏡に映る自分の顔を見つめながら、レイは小さく微笑んだ。
二十八歳。世間から見れば、そろそろ結婚を考える年齢だ。実際、大学時代の友人たちは次々と結婚し、子供を産み、SNSには幸せそうな家族写真が並ぶ。
でも、レイにはそれが窮屈に見える。
いや、正確に言えば、かつてレイもそれを求めていた。二十四歳の時、当時付き合っていた恋人と婚約までした。結婚式場も予約し、ウェディングドレスも選んだ。
そして、すべてが崩れた。
婚約者は言った。「君はもっと普通になれないのか」と。
普通。
その言葉が、レイの中で何かを壊した。
それ以来、レイは「普通」を求めることをやめた。自分が愛したいように愛する。自分が生きたいように生きる。誰かの期待に応えるためではなく、自分の心に正直に。
もちろん、簡単な道ではなかった。
家族からは勘当され、友人たちからは距離を置かれた。職場でも、彼女の生き方は理解されなかった。何度も転職を繰り返し、今はフリーランスのグラフィックデザイナーとして細々と生計を立てている。
それでも、レイは後悔していない。
部屋を出て、近所のカフェに向かう。日曜日の朝の街は、穏やかな空気に包まれている。
「おはよう、レイちゃん」
カフェのオーナー、六十代の女性・千鶴が笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、千鶴さん」
「今日もいい天気ね。ブレンドでいい?」
「はい、お願いします」
カウンター席に座り、レイはノートパソコンを開いた。今日は新しいクライアントのロゴデザインを仕上げなければならない。
コーヒーの香りが鼻をくすぐる。千鶴が淹れるコーヒーは、いつも完璧な温度で、完璧な味だ。
「レイちゃん、最近どう?」
千鶴が優しく尋ねた。
「相変わらずです」
「そう。あなたはいつも楽しそうね」
「楽しいですよ。毎日が」
「それは何よりだわ」
千鶴は、レイの生き方を知っている数少ない人間の一人だ。そして、彼女は一度も批判しなかった。ただ、「あなたらしく生きなさい」と言ってくれた。
レイがデザイン作業に没頭していると、スマートフォンが振動した。
隼人からだ。
「今日の夜、会えないかな。どうしても君に会いたい」
レイは少し考えて、返信した。
「今日は悠馬と約束してるの。明日の夜ならどう?」
すぐに返信が来た。
「わかった。明日を楽しみにしてる」
レイは、五人の恋人たちに対して、常に正直だ。誰かと会う時は、他の誰とも会わない。その時間は、完全にその人だけのものだ。
午後三時、悠馬が約束の場所に現れた。
代々木公園。夏の陽射しの下、木陰のベンチに二人は座った。
「レイ、久しぶり」
悠馬の笑顔は、いつも少年のようだ。
「一週間ぶりね」
「一週間が長く感じたよ」
二人は並んで歩き出した。公園には、家族連れやカップルが散歩を楽しんでいる。
「最近、どう? 大学は?」
「相変わらず忙しいよ。ゼミの発表があって、それの準備で」
「頑張ってるのね」
「うん。でも、時々わからなくなるんだ」
「何が?」
「何のために頑張ってるのか」
悠馬の表情が少し曇った。
「親は、大手企業に就職しろって言うんだ。安定した仕事に就いて、早く結婚して、孫の顔を見せてくれって」
「あなたはどうしたいの?」
「わからない。でも、親の期待に応えるために生きるのは、なんか違う気がする」
レイは悠馬の手を握った。
「あなたの人生は、あなたのものよ」
「レイといると、それを思い出せる」
「思い出すんじゃなくて、忘れないでいてほしい」
二人はアイスクリームを買って、芝生に座った。
溶けかけたアイスクリームの冷たさと甘さが、夏の暑さを和らげる。
「レイは、どうしてそんなに自由なの?」
悠馬が尋ねた。
「自由じゃないわよ。私だって、たくさん我慢してる」
「でも、自分らしく生きてるじゃない」
「それは、そうすることを選んだから」
「選んだ?」
「そう。誰かの期待に応えて生きるか、自分の心に正直に生きるか。私は後者を選んだだけ」
「簡単じゃないよね」
「簡単じゃない。でも、後悔はしてない」
悠馬は、レイの横顔をじっと見つめた。
「レイ、俺、君のこと本当に好きだよ」
「私も」
「でも、俺だけじゃないんだよね」
「そうね」
「それで、いいのかな」
「いいかどうかは、あなたが決めることよ」
「俺は、レイが幸せならいいと思ってる」
「ありがとう」
夕暮れ時、公園を出る頃には、空が茜色に染まっていた。
「また来週」
悠馬が手を振る。
「また来週」
レイも手を振り返した。
帰り道、レイは自分の生き方について考えた。
五人の恋人。世間から見れば、異常だろう。節操がない、淫らだ、そう言われても仕方がない。
でも、レイは一人一人を、心から愛している。
それは独占欲からではない。所有欲からでもない。ただ、その人の存在そのものが愛おしいという、純粋な感情だ。
なぜ、愛する人を一人に限定しなければならないのか。
なぜ、愛は独占でなければならないのか。
レイには、その答えがわからない。
ワンルームマンションに戻り、シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
スマートフォンを開くと、五人からのメッセージが待っていた。
一つ一つに返信しながら、レイは思う。
この生き方は、いつまで続くのだろうか。
いつか、すべてが崩れる日が来るのだろうか。
でも、今この瞬間、レイは幸せだった。
そして、それだけで十分だと思った。
三年が経った。 レイは、三十二歳になっていた。 東京の夏は、相変わらず暑い。 でも、レイはこの暑さが嫌いではなかった。 生命力を感じさせる暑さだ。 レイは、今も同じデザイン事務所で働いていた。 仕事は充実していて、いくつかの大きなプロジェクトも任されるようになった。 隼人は、転職していた。 あの広告代理店を辞め、小さなコンサルティング会社に移っていた。「もう、終電まで働く生活は嫌だ」 隼人は、そう言って決断した。 給料は下がったが、隼人は満足していた。「人生は、金だけじゃないって、やっとわかったよ」 悠馬は、大学を卒業し、NPOで働いていた。 親が望んだ大手企業ではなく、自分が本当にやりたいことを選んだ。「レイさんが教えてくれたんです。自分の人生は、自分で決めるって」 三人の関係は、続いていた。 週に一度ずつ会う。 時には三人で会うこともある。 それが、三人のリズムだった。 ある日、レイはいつものカフェにいた。 千鶴のカフェ。 千鶴は、少し歳を取ったが、相変わらず元気だった。「レイちゃん、最近どう?」「相変わらずよ」「それは何よりだわ」 カフェのドアが開いた。 入ってきたのは、若い女性だった。「あの、亜蘭レイさんですか?」「はい」「私、あなたの記事を読んで、勇気をもらった者です」 レイは、微笑んだ。「そうなの? 嬉しいわ」「私も、同じような生き方をしています。でも、誰にも言えなくて」「言わなくてもいいのよ。大切なのは、自分が納得していることだから」「でも、あなたは公にしましたよね」「それは、状況がそうさせただけ。必ずしも、みんなが公にする必要はないわ」 女性は、安心したような表
記者会見から三ヶ月が経った。 秋が深まり、東京の街路樹が色づき始めていた。 レイの生活は、徐々に落ち着きを取り戻していた。 デザイン事務所での仕事は順調で、新しいプロジェクトにも参加していた。 隼人と悠馬との関係も、安定していた。 週に一度ずつ会い、一緒に時間を過ごす。 それが、三人のリズムになっていた。 ある日、レイは千鶴のカフェで仕事をしていた。 ノートパソコンの画面に向かい、新しいロゴデザインを作っている。 その時、カフェのドアが開いた。 入ってきたのは、見覚えのある顔だった。 蒼太だった。「レイさん」 レイは、驚いて顔を上げた。「蒼太......」「久しぶりです」 蒼太は、少し緊張した様子でレイの前に立っていた。「座らない?」「いいんですか?」「もちろん」 蒼太は、レイの向かいに座った。 しばらく沈黙が続いた。「元気でしたか?」 蒼太が尋ねた。「まあまあね。あなたは?」「俺も、まあまあです」 また沈黙。「あの、レイさん」「うん」「記者会見、見ました」「そう」「すごいと思いました。あんなに堂々と、自分の生き方を語るなんて」 レイは、小さく微笑んだ。「堂々となんてしてなかったわ。内心は震えてた」「でも、逃げなかった」「逃げても仕方なかったから」 蒼太は、コーヒーを一口飲んだ。「レイさん、俺、謝りたくて来ました」「謝る?」「はい。あの時、俺、レイさんのことを理解しようとしなかった」「いいのよ。あなたは、あなたの選択をしただけ」「でも、今なら少しわかる気がするんです」「何が?」「レイ
記者会見から三日後、レイの生活は劇的に変わった。 いや、変わったというより、むしろ元に戻ったと言うべきか。 マスコミの取材は続いていたが、レイはもう対応しなかった。言うべきことは、全て記者会見で言った。 SNSの炎上も、徐々に収まっていった。次の話題が出てきて、人々の関心は移っていった。 レイは、新しい仕事を見つけた。 小さなデザイン事務所が、レイを雇ってくれた。 社長は、五十代の女性だった。「私は、あなたの生き方を応援するわ」「ありがとうございます」「人は、それぞれ違う。それを認め合うことが、大切だと思うの」 レイは、その言葉に救われた。 ある日、隼人から提案があった。「三人で、焼肉でも食べに行かないか?」「焼肉?」「ああ。俺、最近肉が食べたくて」 悠馬も賛成した。「いいですね。俺も行きます」 その夜、三人は焼肉店に行った。 小さな店だが、評判の良い店だ。 三人は、テーブルを囲んだ。 七輪に炭が入れられ、火がつけられる。 オレンジ色の炎が、三人の顔を照らす。「じゃあ、乾杯」 隼人が、ビールのジョッキを持ち上げた。「何に乾杯する?」「俺たちに」 三人は、ジョッキを合わせた。「乾杯」 ビールの冷たさと苦味が、口の中に広がる。「うまい」 隼人が、満足そうに言った。 肉が運ばれてきた。 カルビ、ロース、ハラミ。 レイが、肉を焼き始める。 肉が焼ける音。ジュウジュウという、心地よい音。 煙が立ち昇り、タレの甘辛い香りが漂う。「はい、どうぞ」 レイが、焼けた肉を隼人と悠馬の皿に載せる。「ありがとう」 二人は、肉を口に入れた。「うまい!」
炎上は、収まらなかった。 毎日、新しい記事が出る。テレビのワイドショーでも、レイの話題が取り上げられた。 コメンテーターたちは、好き勝手に意見を述べた。「こういう生き方は、社会の秩序を乱す」「でも、彼女は誰も傷つけていないのでは?」「いや、関わった男性たちは傷ついているはずだ」「本人たちが納得していれば、問題ないのでは?」 議論は、延々と続いた。 レイは、テレビを消した。 もう、何を言われてもいい。 でも、事態は予想外の方向に進んだ。 ある日、マスコミ各社から、記者会見の要請が来た。「あなたの生き方について、きちんと説明する場を設けたい」 レイは、悩んだ。 記者会見をすれば、さらに注目を浴びる。 でも、自分の言葉で、きちんと説明する機会でもある。 隼人と悠馬に相談した。「どう思う?」「俺は、レイがやりたいようにすればいいと思う」「俺もです」「でも、あなたたちにも影響が」「もう、覚悟はできてる」 レイは、記者会見を受けることにした。 一週間後、都内のホテルで記者会見が開かれた。 会場には、数十人の記者が集まっていた。 カメラのフラッシュが、レイを照らす。 レイは、マイクの前に立った。 深呼吸をする。 そして、話し始めた。「本日は、お集まりいただきありがとうございます。亜蘭レイです」 会場が静まり返る。「私は、二十八歳です。フリーランスのグラフィックデザイナーとして働いています。そして、二人の男性と、同時に恋愛関係にあります」 記者たちが、ペンを走らせる。「なぜ、このような生き方を選んだのか。それは、私にとって、これが自然だからです」 レイは、原稿を見ずに話した。「世間では、恋愛は一対一であるべきだとされています
千鶴が、このカフェを開いたのは、二十年前のことだった。 当時、彼女は四十五歳。夫と離婚し、人生の転機を迎えていた。 それまで、千鶴は「普通」の主婦だった。 夫に尽くし、家事をこなし、子供を育てる。 それが、千鶴の役割だった。 でも、千鶴には夢があった。 いつか、自分の店を持ちたい。 コーヒーを淹れ、人々が集まる場所を作りたい。 でも、その夢を夫に話すと、笑われた。「今更、何言ってるんだ。主婦が店なんか開けるわけないだろう」 千鶴は、その言葉に傷ついた。 でも、反論できなかった。 なぜなら、千鶴自身も、自分には無理だと思っていたから。 結婚生活は、二十年続いた。 でも、幸せではなかった。 夫は、千鶴を尊重しなかった。 千鶴の意見を聞かず、千鶴の気持ちを無視した。 千鶴は、ただの家政婦のようだった。 子供が独立した後、千鶴は夫に言った。「離婚したい」 夫は、驚いた。「なんで? 俺、何か悪いことした?」「悪いことをしたんじゃない。何もしなかったのよ」「意味がわからない」「私を、一人の人間として見てくれなかった」 夫は、理解できなかった。 でも、千鶴の決意は固かった。 離婚は、成立した。 四十五歳。人生の半分を過ぎていた。 でも、千鶴は諦めなかった。 貯金を使い、小さなカフェを開いた。 最初は、客も少なかった。 経営も苦しかった。 でも、千鶴は諦めなかった。 一杯一杯、丁寧にコーヒーを淹れた。 一人一人の客と、真摯に向き合った。 徐々に、常連客が増えていった。 そして、二十年。 千鶴のカフェは、地域の人々に愛される店になった。 千鶴は、今、六十五歳だった
平穏な日々が戻ってきたかに見えた。 レイは、隼人と悠馬との時間を大切に過ごしていた。 週に二回、それぞれと会う。 以前のように、五人との時間はなくなったが、それでもレイは幸せだった。 そして、仕事も順調に進んでいた。 新しいクライアントから、大きなプロジェクトの依頼が来た。 レイは、久しぶりに情熱を持って仕事に取り組んだ。 しかし、その平穏は長くは続かなかった。 ある日、レイのスマートフォンに、見知らぬ番号から電話がかかってきた。「もしもし」「あの、亜蘭レイさんですか?」「はい」「私、『東京ウィークリー』という雑誌の記者をしております、田中と申します」 レイの心臓が、早鐘を打ち始めた。「何の御用でしょうか」「実は、あなたについて取材させていただきたいのですが」「取材?」「はい。あなたの......恋愛についてです」 レイは、息を呑んだ。「どういうことでしょうか」「情報提供がありまして。あなたが、複数の男性と同時に交際しているという」「......」「事実でしょうか?」 レイは、電話を切った。 手が震えていた。 どうして、知られたのだろう。 誰が、情報を提供したのだろう。 レイは、すぐに隼人と悠馬にメッセージを送った。「緊急。話がある」 その日の夜、三人は千鶴のカフェで会った。 千鶴も、事情を聞いて同席していた。「雑誌の記者から、電話があった」 レイが言うと、隼人と悠馬は顔色を変えた。「何て?」「私が複数の男性と交際していることを、記事にしたいって」「誰が情報を?」「わからない。でも......」 レイは、言葉を飲み込んだ。 でも、心当たりはあった。